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井川意高の若い頃から特別背任で捕まるまでの経歴

「大王製紙の前会長」で現在はYoutubeなどに出演している「井川意高」さん

東大卒のエリートでありながら、賭博で有罪判決を受けて収監されるという楽しい人生を歩んでらっしゃいます。

Youtubeでの語り口はキツい時もありますが、芸人さんとの絡みでは、威圧感もなく話し方もえらぶらず好感が持て人気です。

そんな「井川意高」さんの人生を若い頃から「特別背任」でを振り返って行き、どんな人物なのか掘り下げていきたいと思います。

目次

「井川意高」さんの学生時代

出典:Wikipedia

「井川意高」さんは「東京教育大付属駒場中学・高校」(現在の筑波大学付属駒場中学・高校)に進学しています。

小学校4年生の時、東京に旅行で出かけお父様が偶然「代々木ゼミナール」の模試があるのを見つけます。

そして小学校4年生なのに「受けてこい!」と言われて受験します。6年生に混ざって受験したにも関わらず、全国2位の成績をおさめます。

すると「お父様」に火がついて「東京の進学校を受験して東大を受けろ」と言われたそうです。

そして「麻布中学」と「東京教育大付属駒場中学」を受験して、両校に合格。

授業料の安い「東京教育大付属駒場中学」に進学しました。

「東京教育大付属駒場中学・高校」(現在の筑波大学付属駒場中学・高校)の偏差値

最新の「偏差値」を見ると「77」です。全国屈指の進学校です。やはり頭の良い方なんですね。

小学校4年で模試全国2位になったとき塾には行ってなかった

全国模試を4年生ながら全国2位を獲得した井川さん。

自分で本を読んだり、勉強したりして知識をつけ家庭教師や塾には通わずにそれだけの点数を取りました。

普通では考えられない「地頭」の持ち主ですが、実はお父様の影響があります。

お父様は井川さんが小学校に上がる前に「九九」を覚えさせたり、漢字を教えたりしていました。

もし覚えられなければ「鉄拳制裁」を受けていたそうです。

家庭教師

火のついた「お父様」は井川さんに家庭教師をつけることにします。

その家庭教師は学生バイトなどではなく「お父様」が勤める大王製紙の優秀な社員がついたそうです。

1日に1時間か2時間、その社員が家庭教師がわりに付いて「理科」や「算数」を勉強したそうです。

筑波大学付属駒場中学・高校時代

超進学校に進んだ井川さんですが、勉強ばかりでなく遊ぶことも忘れていなかったようです。

高校生時代は「出席率7割 試験で70点以上」を取っていれば落第しないことを知っていたました。

そこで友達と連んで学校を抜け出し、昼飯を食った後に雀荘に行っていたそうです。そのほか、学校を抜け出してはパチンコやゲームセンターに行ってました。

学生時代の女性関係

「筑波大学附属駒場」の周りは男子校ばかりで女性と出会うことがなかったようです。

井川さんは「筑波大学附属駒場」と「麻布」の両校に合格していました。

もし「麻布」を選んでいれば、周りに女子校があったので、女の子と遊ぶきっかけがあったかもとお話ししていました。

結局、中学、高校と「女性関係」は何もなく過ごしており、女性デビューは大学生なってからでした。

つまり大学生で童貞卒業??したわけですね。

東大時代は勉強せずに遊んでいた

お父様の意向で「官僚になれ」と言われ、将来は官僚になることを決めました。当時は「大蔵省」や「通産省」がエリートとされていたので、そこを目指そうと考えました。

しかし、いずれ大王製紙に入るだろうという考えもあったのと、大学に入って将来の「官僚」を見据え、「上級職試験」の勉強をすると遊ぶ暇がないと思い、お父様には「受ける」といいながら、遊んでいました。

大学卒業後は1年間「専門学校」へ

東大を卒業してからすぐには就職せず、1年間遊んでいました。

遊ぶと言っても本当に遊ぶわけではなく、簿記の勉強のため「大原簿記専門学校」にお昼に通いながら夜は飲み歩いてました。

「遊ぶ」と言いつつニートな感じではなく、きっちり勉強してるのは凄いことです。

1年の猶予を経て「大王製紙」に入社

1年間遊んだ「井川」さんは、「大王製紙」に入社します。

最初の配属先は工場

まずは「工場」に配属されます。

工場に入って、製造工程を学んでいきます。その際も工程を1番わかっている主任に付いてもらい教えてもらいました。

その後は、新しい機械設備の建設現場に入ることになります。抄紙機械と言って紙を抄く(すく)機械を設置する現場です。

その機械が立ち上がると同時に、そこで保全スタッフとして働いていました。

4年目には工場長代理で工場全体をマネジメント

4〜5年経った頃には「工場長代理」になります。

「工場長代理」とは工場内で3番目くらいのポジション(工場長→工場次長→工場長代理)に就きます。

管理部門の人事や原価計算など担当する工場長代理を務めました。

岐阜の「名古屋パルプ(子会社)」へ出向

その後、岐阜の子会社に出向します。(現在の大王製紙の岐阜工場)

しかし、この子会社の「業績」や「財務」が大変なことになっています。

  • 売上120億
  • 負債1000億
  • 赤字70億

という悲惨な状況でした。

結局、「井川」さんはこの子会社の業績を4年で復活させるわけですが、ご本人曰く立て直した要因は「出向で一緒に来た4〜5人の優秀な管理職のおかげ」と仰ってます。

自信過剰にならず、「井川」さんの謙虚な面が垣間見れます。

「大王製紙」の常務取締役に

岐阜の子会社の業績を復活させた後、31歳で「大王製紙の本社・常務取締役」に就任します。

そこで「家庭紙」を担当します。

「家庭紙」とは

  • トイレットペーパー
  • ティッシュペーパー
  • 紙おむつ
  • 生理用品

などです。

「井川」さんはここでも赤字の部門を担当します。

当時、紙おむつは「大王製紙」より5年遅く、マーケットに参入した「ユニ・チャーム」がトップシェアを取っていました。

「大王製紙」はマーケティングが上手くなく「紙おむつ」の分野で後塵を拝していました。しかも、「ティッシュ」や「トイレットペーパー」も価格競争で赤字になってました。

しかし、ココでも改善の手を加えてます

  • 開発の見直し
  • マーケティングの見直し
  • 営業手法の見直し

どんな商品が受け入れられるか?その商品をどう売るか?価格競争に巻き込まれないようどう売るか?

それをすべて見直しました。

数年後に

  • 売上550億円
  • 赤字80億円

  • 売上1000億円
  • 黒字80億円

に回復させます。

30代の10年はこの事業の立て直しに翻弄していました。

「井川意高」の若い頃から捕まるまでのまとめ

賭博のイメージが強い「井川意高」さん。

賭博や逮捕に関する情報は豊富にありますが、彼の仕事での実績についての情報が少ないのでまとめてみました。

仕事では凄い実績のある人だとよくわかりました。

最近はYoutubeでいろんな業界の人や業界の闇をぶった斬ってます。これからの「井川」さんにも注目していきたいです。

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