「権藤権藤雨権藤」と聞いたことがあるが、なんのことか分からないから調べて当ブログにたどり着いたと思います。
この「言葉」はオールド野球ファンの方はご存知だと思いますが、若い野球ファンには分からない「言葉」だと思います。
そこでこの記事では「権藤権藤雨権藤」の意味とそれに纏わるエピソードをご紹介します。
権藤権藤雨権藤とはどういう意味?
「権藤権藤雨権藤」は「ごんどう・ごんどう・あめ・ごんどう」と読みます。
昭和のプロ野球選手中日ドラゴンズの「権藤博(ごんどう ひろし)」投手の登板頻度を表現した言葉になります。

毎日、毎日試合で休まず登板して、雨で試合がない日を挟んでまた登板する。
そんな状態を見た、東京読売ジャイアンツ当時のエース「堀本律雄」投手が、
「中日の投手は権藤しかおらんのか、つぶれてしまうぞ。権藤、権藤、雨、権藤や」と言ったのがこの言葉の始まりでした。
権藤権藤雨権藤はいつ言われていたの?
はっきりと「いつ」かわかりませんが、おおよそ検討がつきます。
「権藤博」投手は1961年(昭和36年)に中日ドラゴンズに入団しています。
1年目に69試合。2年目に61試合。3年目に45試合。4年目に26試合。5年目に9試合投げています。
おそらく、登板が多かった1年目、2年目に使われていたと推測できるので、「1961年、1962年」に「権藤権藤雨権藤」は流行した言葉だと思われます。
権藤権藤雨権藤の続きがある。
「権藤権藤雨権藤」には続きがあります。
「雨雨権藤雨権藤」です。
「権藤権藤雨権藤、雨雨権藤雨権藤」が続きを含めた「フルフレーズ」になります。
「権藤・権藤・雨・権藤」は本当?嘘?実際はどうだった?
本当に権藤さんはこのような登板をしたのか検証してみました。
1961年の1年目の8月の登板実績を調べました。
- 8月2日9イニング
- 8月5日9イニング
- 8月9日9イニング
- 8月10日4イニング
- 8月12日2イニング
- 8月13日9イニング
- 8月16日12イニング
- 8月17日6 2/3イニング
- 8月22日4イニング
- 8月24日10イニング
- 8月27日9イニング
- 8月27日2 1/3イニング
- 8月29日3イニング
- 8月30日10イニング
「権藤権藤雨権藤」って感じじゃなく、実際はもっと登板していましたね。
8月だけで14登板101イニング
今の投手は1週間に1回の登板。先発だと100球目処でよく投げて7イニングと考えると一月の登板は4登板28イニング
「権藤博」と「今の先発投手」を比較すると
- 権藤博:14登板 101イニング
- 現先発: 4登板 28イニング
登板数で3.5倍、イニング数で2.8倍、今の典型的な先発投手より投げていました。
権藤はなぜ酷使されたのか?
権藤博が入団する1950年代、中日ドラゴンズは3位以下になったことのない、常勝チームでした。
しかし、1960年は5位という結果になりました。先発投手陣が総崩れで翌年は巻き返しを狙っていました。
中心投手がいないなか、権藤博が社会人から入団してきました。
権藤に頼らざる得ないチーム状況が「権藤博」の登板過多に繋がった原因です。
「権藤博」は登板を不満に思わなかった
「野球殿堂入り」した「権藤博」さん
Youtube番組で当時のことを振り返っていました。
「肩や肘が痛いとかタルんでいる。命まで取られることはない」という指導方針があった。また戦争を経験したプロ野球選手や、戦争で亡くなったプロ野球選手もいた。そんな状況を知っていたから「投げられるだけ幸せ」という気持ちもあった。
と語っています。
今では受け入れられない考えかもしれませんが、当時の環境を考えると、そのような考えに至るのも仕方ないかも知れません。
権藤はなぜ引退したのか?登板過多が理由でない
「登板過多」これが原因と思われているが「権藤博」自身はそうは言ってない。
登板が多かった1年目、2年目は「気持ちよく」投げれていた。しかし、3年目は打たれるとすぐに降板させられた。
すると「抑えよう」という気持ちが湧いてきて、ピッチングに無理が生じてきた。(変な力が入って、負担のないフォームで投げれない意味だと思われる)
4年目にはそれが酷くなり全く勝てない。だから余計に「力」が入り、身体を壊してしまった。
「気持ちよく投げれない」それが原因となりフォームを崩し、身体を壊してしまった。
それが本当の引退理由だった。
「権藤権藤雨権藤」のNPBでの投手成績
「権藤博」は日本のプロ野球での実働はわずか8年でした。
5年目からは「野手」に転向したため投手として試合せず、引退した1968年に再度投手に復帰してます。
「投手」としての実働は「5年」で成績はこんな感じです。
年度 | 登板数 | 投球イニング数 |
---|---|---|
1961年 | 69登板 | 429.1イニング |
1962年 | 61登板 | 362.1イニング |
1963年 | 45登板 | 220.2イニング |
1964年 | 26登板 | 105.1イニング |
1968年 | 9登板 | 18.1イニング |
最初の2年、今では考えられない登板数でした。
「権藤権藤雨権藤」という流行語は本当でした。むしろ実際の登板はそれ以上でした。
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