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青木歌音【野球wiki】野球部時代に起こした大事件で袋叩きに

「元・男の子」で現在YouTuberとして60万人以上の登録者がいる「青木歌音」さん

一瞬「本田翼?」と思うくらい可愛いのですが、学生時代は「甲子園常連校」で野球をしていました。

しかし、野球より「女の子っぽい遊び」をしたかった「青木歌音」さん。

いろんなきっかけにより「野球」をすることになります。そこでこの記事では野球を始めたきっかけから、野球の実力。

高校時代の他人に迷惑をかけたエピソードを交えてご紹介していきます。

目次

野球を始めたきっかけ

小学校1年生から野球をはじめます。

きっかけはお父さんでした。お父さんは高知県の「高知高校」という甲子園に出る強豪校出身。

しかも、甲子園で準優勝した経験の持ち主です。

ある日、お父さんが「青木歌音」に「ローリングスの野球グローブ」を買ってきました。

それでキャッチボールすることになりました。

全く野球に興味のなかった「青木歌音」さんですが、これが野球を始めるきっかけになります。

超絶野球が上手いお父さん

甲子園準優勝メンバーのお父さんとキャッチボールした「歌音」さん。

お父さんは容赦ありませんでした。

小学校1年生相手に豪速球を投げ込みます。まだ小さく、野球経験もない子供には恐怖でしかありませんでした。

嫌々ながらもキャッチボールをしていた「歌音」さん。

お父さんに「野球をやりたくない」と直訴しますが、胸ぐらを掴まれて
「何を言ってるんだ!お前はお父さんの夢、プロ野球選手になるんだ!」と脅されます。

そして問答無用で地元の野球チーム「上目黒ジュニアファイターズ」という
少年野球チームに入団させられました。

やる気がないのに「野球チーム」入団も才能を見出される

全くやる気がないのに入団させられたので、練習にも身が入りません。

お父さんも練習を見にくるのですが、その時だけ真面目にやって、来ない日は全く練習しませんでした。

ある日、少年野球チームの監督「坂内」さんとキャッチボールをしました。

そのとき、「歌音」さんの肩の良さに気づいた坂内さん。

すぐさま「外野手」の練習をさせます。すると外野からホームまでの送球が驚くほどよく、上の世代3年生、4年生の選手より良い球を投げました。

そこで「ピッチャー」をやってみないか?

そう言われ、「ピッチャー」を始めることになります。

「闘争心に火をつけた」ライバルの存在

そんな野球の才能あふれる「歌音」さん。3年生になると「マイナー戦」でエースとして活躍します。

しかし、ある試合で自分より実力のある選手に出会います。

当時、地元でバケモノみたいな感じで呼ばれていた「東山エイターズ」という野球チームのエースの選手。

この選手が「歌音」さんの野球嫌いな気持ちを180度変えて「本気」させます。

ちなみに「歌音」さんを本気にさせたライバルは、現在ユーチューバーとして活躍している「激辛 ジョニー」さんです。

6年生で100キロ越えのストレート

6年生になったときのストレートの急速は103キロを計測します。

「打つ」「守る」はそれほどでもなかったのに「投げる」ことに関しては突出した才能を開花させた「歌音」さん

あるひ「ヤクルトスワローズ」の野球教室に参加することがありました。

ここで、日本最速を記録したことがある「五十嵐亮太」投手に、力ではなく、その「しなやか」フォームでスピードボールを投げていることを褒められます。

そこでさらに野球が好きになります。

中学に上がると更にすごい奴らが現れる

そのまま中学でも野球を続けることにした「歌音」さん。しかし、中学になるといろんな小学校から集まるので、野球のレベルは更に上がります。

「投げること」に関しては小学校時代はトップでしたが、違う小学校のエースだった「米田宗佑」さんという化け物が「歌音」さんと同じチームになります。

「米田宗佑」さんは1年生ながら2・3年生に混じってガンガン投げていました。

「歌音」さんは残念ながら「球拾い」をしていました。そんな「米田」さんを見ながら心の中で「フォアボール出せ!」「失敗しろ!」と心の中で願ってました。

しかし、ここで「負けず嫌い」が発動してしまいます。

「歌音」さんはこの中一の時点で急速が112キロでしたが、更にスピード上げたくてお父さんに相談します。

お父さんの知り合い(元プロ野球選手)に相談で急速UP

お父さんは「甲子園準優勝」の実力者。知り合いにも野球の実力者がたくさんおり、プロに進んだ方とも同期でした。

元阪神タイガースの中西清起や元日本ハムファイターズの河野博文さんです。

そしてお父さんは河野博文さんやっていた練習方法を教えてもらいます。

そのやり方が「テニスラケット」を投手の投げ方で振りまくるでした。それを毎日100回くらい続けていると、中学2年になる直前に球速が118キロまで伸びました。

結果がでたので、引き続けてその練習すると中学2年の夏には123キロまで球速がUP

中学2年生で123キロはかなり世代トップクラスの球速です。

しかし、「歌音」さんは中学のチームでエースになることはありませんでした。

なぜかというと、そんなラケットを振る練習を続け、ボールを投げる練習をしなかったため、代償としてコントロールがまったく良くなりませんでした。

中3で謎の成長が!?更に球速がアップする

中3になるころには、悪かったコントロールもそこそこ纏まり、球速は更にUPし128キロを投げるまでになります。

中学3年生で128キロを投げるのは全国レベルの急速です。

同じチームのエースが125キロだったので、「歌音」さんの方が急速では上回ってました。

そして、コントロールが纏まったことにより、登板機会も増えてエースが先発、中継ぎ・抑えとして「歌音」さんが登板する勝利の方程式ができあがります。

そして「足立9中」という全国大会に出てる学校を相手に、ストレートだけで打者6人に対してストレートだけで4三振を奪いました。

それで野球の自信が更に膨らみます。

中学野球を秋に卒業後、シニアの名門世田谷西シニアの練習生に

中学野球(軟式)を卒業して高校入学までにシニアリーグ(硬式)の名門「世田谷西シニア」に練習生として火曜日と木曜日に参加します。

中学野球とは比べものにならない練習の厳しさですが、なんとか頑張ります。

そして今まで「軟式球」でしたが、世田谷西シニアで初めて「硬式球」を投げます。

そこでなんと球速132キロを計測します。

これには有望選手がたくさんいる「世田谷西シニア」のメンバー達も驚いて、「歌音」さんの多球の実力を認めます。

そんな感じで「世田谷西シニア」では半年ほど練習して中学を卒業します。

その頃には身体はムキムキに鍛え上げられていました。

甲子園常連校「高知高校野球部」に入部し洗礼を受ける

東京から高知の名門「高知高校」野球部に入学した「歌音」さん。

早速、野球の先輩達からの洗礼を受けます。それは厳しい練習でも、厳しい上下関係でも無く「言葉」についてイジられます。

「高知高校」野球部には東京から入部してくる選手はおらず、高知県内の中学校から選手が集まってきます。

「標準語」を話す「歌音」さんが珍しく、男性が標準語を話すと弱々しく聞こえるようでそれをみんなからイジられます。

実力を見せつけると、見る目が変わってきた

「歌音」さんはピッチャーとして「高知高校」に入学しました。

練習では同じピッチャーの先輩達とキャッチボールします。そこで先輩達は自分の「力」を見せつけるために遠い距離まで離れてボールを投げてきます。

普通の高校1年生なら距離が離れるとボールは山なりとなり、最後は1バウンドでした届かなくなります。

しかし、中学時代に「強肩」が売りだった「歌音」さんは違いました。

逆に先輩が届かない距離でも楽々ライナー性のボールで投げることができました。

これには周りの選手も驚き、先輩でのちにプロ野球に進む「公文克彦」さんからも、その方の強さを絶賛されました。

実力を見せたことで、「標準語」をバカにしていた仲間達も、「歌音」さんを認めるようになりました。

想像を絶する「高知高校野球部」の練習と高校時代の黄金期

「高知高校野球部」の練習は想像を絶する厳しさでした。

そんな練習に耐えていた「歌音」さん。なんとか頑張っていましたが1年生で「ヘルニア」になってしまいます。

高校入学後まだ1年も経っていない時期の故障発生でしたが、実は「高校入学→ヘルニア発症」までが「高校黄金期」でした。

1年生ながら3年生の捕手の方に球を受けてもらってたのですが、その「捕手」が後に中日ドラゴンズに進んだ「木下拓哉」さんでした。

その木下さんからエースの公文克彦さんと「スピードが変わらんなぁ」と言ってもらえたそうです。

エースの「公文」さんは甲子園で141キロの球速を出していたので、「歌音」さんも同じくらいのスピードを出していたことになります。

冬には「ヘルニア」で練習離脱で「心境に変化が」

ずっときつい練習に耐えてましたが、「ヘルニア」を発症して練習を離脱します。

練習に参加できず「雑用」をこなす「歌音」さん。次第に野球以外のことを考え始めます。

元々、女の子になりたい自分が目を覚まします。

  • こんなにムキムキでいいの?
  • 握力が70もあるよ

「本当にこのまま男の子として生きていって良いの??」

そんな疑問が自分の中に現れてきます。

そして学校で「唯一安らぎ」を感じる時間が女友達と話している時でした。

今まで封印していた欲望が徐々に解放されていきます。

そして野球部の「男子寮」にいることに違和感を感じることになります。

大事件を起こして

どうすることもできなくなった「歌音」さん。

野球部の男子寮を抜け出して「女友達」に会いに行ってしまいます。

そして寮の点呼の時に「歌音」さんがいないことがバレます。

「高知高校野球部」は何かあったら連帯責任。点呼で脱走していたことがバレた先輩野球部員は廊下で正座させられます。

「歌音」さんは女友達にあった後、23時過ぎに寮に戻ります。

安易に「多分バレてないだろう」とソッと裏口から寮に入りますが、入り口で寮長に見つかります。

寮長から「とりあえず、中に入れ」と言われて寮に入った「歌音」さんは驚愕の光景をみることになります。

真冬の廊下に「正座」させられた先輩達の列を・・・

すると「寮長」が先輩達に

「お前ら全員グランドに出ろ」と指示を出します。夜ご飯を食べ終え、お風呂も終わり寝るためのパジャマやスエット姿の先輩達がグランドに移動します。

「寮長」はグランドに「カラーコーン」を置き始めます。そして「お前ら全員連帯責任や」といって400メートル走を課します。

「歌音」さんは走らされず、グランドの真ん中で走る先輩達を応援させられるという地獄のポジションに立たされます。

その後、怒りを買った先輩達からボコボコにされます。

「野球」をやめる決意をする

大問題を起こした「歌音」さん。

普通ならヘコみますが、この問題をうまく利用します。

精神的に病んだふりをして、ご両親に「野球」を辞めたいと伝えました。すると無事?高知高校を辞めて東京に戻ることができました。

お父さんは「野球」を辞めたことをすごく悲しんで、大号泣しました。

しかし、「歌音」さんには辞めるタイミングがこの時しかありませんでした。

「女の子になる」期限が迫っていた

16歳、17歳くらいが第2次成長期の真っ只中で、このタイミングで女性ホルモンを取り入れないと一生、身体が「女性らしく」なるチャンスを逃すことになります。

「歌音」さんは元男性の「椿姫彩菜」さんの本を読んで、「女の子になる」勉強していました。だから、今のタイミングが「女の子になる」期限だと知っていたので焦っていたのでした。

しかしその反面、「高校中退」となると「中卒」になってしまいます。

お父さんはそれだけは避けたかったので、自身が高知高校の時の伝手を使って編入先の高校を探します。

また野球を始めるきっかけ

「高知高校」野球部部長が「歌音」さんの転校先を探してくれました。

東京にある「共栄学園」です。

無事転校先が見つかって「中卒」は免れた「歌音」さん。しかし転校には条件がありました。

野球部に入部すること」という条件でした。

野球を辞めれると思って「高知高校」を辞めた歌音さんですが、再び野球をすることになります。

「高校野球連盟」の規定で転校後は1年間、公式戦に出れないと決まっています。

高校2年生で転校した「歌音」さんは高3の春まで公式戦に出れないので、実質、最後の夏だけ公式戦に出場できます。

エースとして最後の夏を迎える

高校野球弱小高の「共栄学園」。最後の夏は当然のようにエースとして背番号1を背負います。

そして高校3年生の7月14日に甲子園予選「成城学園」戦で先発する「歌音」さん

エースとして、弱小高の救世主として期待されていたのですが、試合早々に「ヘルニア」を再発して今います。

満足な投球ができずに1イニングで交代させられ、「歌音」さんの野球人生は終了しました。

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